1820年代 |
イギリス人がコーヒーの栽培に成功してブラジルに次ぐ世界第二位の生産地になった。 |
1839年 |
インド、カルカッタ植物園よりペラデニヤ植物園に茶の種子が送られ試験栽培が行われる |
1841年 |
セイロンに住んでいたドイツ人M.Bワームが中国種の苗をロス・チャイルドコーヒー園に植え 繁殖させた苗を弟G.Bワームがソマカに繁殖させ製茶したのがセシロン茶の始まりとされている ... |
1850年代 |
試験栽培が行われスコットランド人のJ・テーラーがキャンディの南東、ルーラコンデラ・エステートというコーヒー園の一角に茶を栽培し自力で成功させた |
1854 |
セイロン種植者協会が設立され、ロンドンに試作品を送り好評を得る |
1867 |
茶園を各地域に開拓拡大、播種した種子はアッサム種と中国種を交配させた新種
コーヒー樹にサビ病が蔓延した為茶生産への転換が促進され、生産の増強がはかられた |
1869年 |
「枯凋病」(さび病)の大発生でコーヒー産業は壊滅した。代わりにキナ(シンコナ)と茶を導入されたがキナは市場を失い茶が残った。 |
1878年10月 |
ロンドンに10箱のセイロンティーが上場された。 |
1880年 |
茶園面積5700ヘクタール 1895年12万2000ヘクタール |
1880年〜1890代 半ば |
完全にコーヒー園は紅茶に切り替えられた。
紅茶が中央山間部に発達したのと同時に標高500m付近にゴムとカカオのエステートも作られ、深刻な労働不足となり、南インドのタミール族を移動させ、生活の利便一切を面倒見るエステイト方式が完成した。 |
1886.2.2 |
アーサー・ハミルトン・ゴードン卿によりウバ地方独立を得る |
1920年 |
22万ヘクタール、生産量22万トンと世界一の紅茶供給体制が確立、コロンボ・オークションとトリンコマリー港から(旧英国艦隊の軍港)からロンドンオークションへ直送されていたが、独立後はコロンボのみで扱われている。
スリランカ共和国になると、ともに英国による資本による大型茶園の国営化が行われたが、その後政権が交代されると再度(1995年)民営化され20の地区別に分けられ、国際市況も好転したこともあり生産も順調に伸びはじめました。 |
1940年頃 |
セントクームスの茶研究所により極端に収量が多い新品種の育成に成功(単位面積当りの収量)によりセイロンティーの生産は増強された |
1974 |
日本では紅茶に原産地表示の義務化が行われたが、スリランカ国生産紅茶は名称にセイロンを使用 |