ジェームステーラー

 

スリランカ紅茶教室 NO6

 

  スリランカの古都で知られるキャンディ、
その中心部からわずかにそれたところにマハイヤワのクリスチャン墓地がある、
ここに眠るのはスコットランド人のジェームステーラー(1835〜1892)
彼は後世スリランカの人々に、紅茶の父として慕われてきた男である。


 セイロンの製茶業の創立者

テイラーの幼年期
彼はスコットランドのモンボドー地域のモス・パークと呼ばれるコテージで、車輪製造人の息子として1335年3月29日に生まれました。
彼の両親(マイケルおよびマーガレット・テイラー)には6人の子どもがいました。
彼が9歳だった時母親が亡くなりました父親は再婚しましたが、新しい母親からも父親からも愛される事がありませんでした。デービッドというフォーダン自由教会学校の先生のもとで教育実習生になるために14歳の(1849年4月1日)時に署名しました。

母親の親類のピーター・ノアールはセイロンでの6年の滞在を終え休暇で家に来ていました。ピーター・ノアールは彼の会社からセイロンで雇用する青年の招聘状を預かっていました。自由教会学校で教えることに満足できなかった16才の彼は自然な運命のように1851年10月セイロン行きを決意しました。

セイロンへの到着

セイロンへの渡航には、ジェームズ・テイラーの他にHenry Stiven、Ancoombra Matare、Francis Blacklaw、Moirs Robertson、と2匹のバセット犬がいました。
Henry Stivenは1868年にゴールで死んだことが記録されます。

セイロンへの航海は、コロンボに着くために3か月かかり、1852年2月20日17歳の時に着きました。
コロンボには2軒の汚いホテルと呼ばれる「小屋」がありました、現在のゴールフェイスホテルとロイヤル・ホテルでした。テイラーが割り当てられたゴールフェイスホテルは短期間の滞在にはそれほど悪くはありませんでした。
彼といとこのHenry StivenはMackwoodファミリーによって出迎えられ、数日後にキャンディへ発ち、Stivenは、Ancoeurabraへ、テイラーは Naranhena Estateに約6週間一時的に落ち着きました。

その頃はまだセイロンでは紅茶栽培は行われていませんでした。
1658年にポルトガルからスリランカの統治権を奪ったオランダは、シナモンに続いてコーヒーの栽培に乗り出しました、1825年にはキャンディとその南のガンポーラの間に、最初のコーヒープランテーションが開かれスリランカは世界有数の産地になりました、しかし、1868年に発生したさび病の蔓延で全滅してしまいます。 

彼が父親に手紙で伝えた中に、「この小さな家は柱の周りを板で釘づけにされた粗末な生活で、藁葺き屋根の端の重なるスレートは開いていてシーズンの多量の風はランプを消すようにバンガローに吹きつけます。そばのジャングルから獲物を求めて多数のネズミが来た夜には警戒する必要があります。豹はその敏感さで好物の犬を探して夜の道を頻繁に歩きまわります。
私は雨季で寒い時、裸のクーリー仲間がどのようにそれに耐えることができるかと思います。」と記しています。
彼がLooleconderaの生活を始めた時、毎年風の吹く季節は、5月に始まり9月まで寒い荒れた夜が続きます。

彼の手紙では、「プライドは最大のコーヒー・ビジネスを持っている素晴らしい人です、しかし、彼はよい言葉を持っておらず、彼は足で地面を強打し罵って立っています。私のタンブラを拾い上げ、バンガローのまえの労働者の頭に投げつけ強打しました、常に、彼は恐ろしい言葉で逆命令を与えており、狂気の人のように飛び回っています。」と示し
彼はその雇主の風変わりで気難しい性格に絶え切れず、隣のルーラコンデラ・エステートに移りました。
 

 紅茶の国の開始

1857年にプライドが死に新しいオーナーに彼が与えられた最初の仕事は200人の労働者とキナの木を植えるための穴を掘ることでした、土地の4分の1は6月中旬までにその他は一年以内にきれいになりました。
この頃から、コーヒーの栽培者たちは徐々にお茶の栽培に興味を持ち始めました。
ジェームズ・テイラーの雇い主 とLooleconderaの所有者だったダンダス社は多くの事を試みることを必要としました。
1860年代初めに彼はペラデニヤ庭園からもらった中国種を植え製茶業を始めました。1867年政府の使者としてインドに茶哉培の技術を学ぶため派遣されていたムーロヤ・エステートの農園主モリスからアッサム茶の種子がルーラコンデラの彼に手渡されたことにより大きな製茶業に発展する結果を与えました。
彼たちはインド茶園の経営者から茶の摘み取り、しおらせて回転させること、ゆっくり発行させること、そして残りの手順を教わりました。

彼のオリジナルの開墾地は山林地域NO7の19エーカーの土地だったと彼の著書「100年間のセイロン紅茶」の中で記しています。
セイロン会社のキャメロン氏が私の農園での刈り込み作業を見て、意見が一致したことは嬉しいことでした、しかし、私が販売リストでトップになっていた時キャメロン氏は素晴らしい摘み取りを行いました、私はこれを見て毎週摘み取りを試みトップに戻りました。精細な摘み取りにより私の1エーカー当りの茶の販売利益を増加させました。
彼の隣人は、茶に関して学習するために彼を頻繁に訪ねました。
彼は丸太小屋のベランダで地方市場で買ってきた、手で揉んだ粗末なお茶を入れました。従者を持たないテイラーは生涯学士のままでした。
彼は40年間で茶を研究するためダージリンで2週間を過ごした一回だけ休暇をとりました。
1872年までにテーラーは(切石でできている長方形の構造)を建てました。

Loolecondera茶は1881年に市況報告をしました。
Loolecondera茶の1878および1873年にロンドンで売られ、テイラーはプライベートセールのために船で行っていたかもしれないと言われています。セイロンでのオークションが始まったのは1883年だつたことを彼の本の中で明らかにします。
彼は製茶業の創立者になった最も幸福な日々であっただろうと想像されます。

LOOLECONDERA地所の売却:

1873年、Looleconderaは、Mr.A.C.ミルン、トマスとMr.サイモンKeirグループに売られました、、その後東洋の銀行清算人に売られ、1897年セイロン不動産会社の管理下におかれた後、農地改革の下で土地開発委員会の管轄に1975年までなってましたが、その後東洋のエステート会社の物となりました。
1885年にはMr.A.C.ミルン、トマスとMr.サイモンKeirは死んでいました。

1892年の初めに、会社は6か月の病気休暇を取るように彼に命じました。
彼は健康でしたので会社が彼を追い払おうとしている事に気づき休暇を拒絶し結果として、彼は仕事を辞職するように依頼されました。それは悲しい出来事でした。

その年、テイラーは赤痢にかかり、1882年5月2日10:00に57歳でLooleconderaの彼の丸太小屋で2日後に死にました
テイラー氏は長いあごひげを持った体重246ポンドの大きな人でした。
棺は埋葬のため24人の担ぎ手によりマハイヤワの墓地に運ばれました。12人の2つのグループが4マイル毎に交代しました。Kanganiesと労働者は彼の棺の後ろに葬列を作りました。Looleconderを早朝に出発した葬列は夕方4:00に墓地に着きましたる
彼は、Looleconderaの「Sami Dorai」として多くの労働者神と見なさりていました。
彼は、最後の息を引き取るまで、仕事で茶畑を歩き回りっていた仕事人間でした。

彼の姉妹テイラーさんは、長老派教会のMahiyawa墓地(キャンディ)の6×4プロットを購入しました。
そこに立てられた記念碑は以下のように記入されます:

"In pious memory of James Taylor of Loolecondera Estate, Ceylon the Pioneer of the Tea and Cinchona Enterprises in this Island who died 『t(May 2nd 1892)t』, aged 57 years.
This stone was erected by his sister and many friends in Ceylon".

死後100日を記念する日にLooleconderaの事務所の隣に小さな博物館が作られました。
彼の遺品と労働者や村人が持っていたものを提供しました。
研石、パイプとプレートの残り、ボルトと釘、古い工場跡地で見つかったとい、一組の人力車車輪と彼が乾燥機兼彼が最初のローラーとして使用していた大きな陶器のなべなどが集められました。

彼が1867に彼のオリジナルの茶園に建てた彼の丸太小屋の廃墟、まだ保存されています。
入浴および家事の目的のために、彼が使用した井戸は1991年に発掘されまだ現存しています。
彼が座った石の厚板の汚れを見つけ彼がLooleconderaの未来を計画したという証拠もありました。

(ジェームステーラー博物館文献を参考にしました)

 切石でできている長方形の建物  彼が座った石の厚板  長老派教会のMahiyawa墓地

テラーが住まいとしていたログキャビンはルーラコンデラ・エステートの中にありました。
釜戸と食料をしまっておいた小屋の跡だけが残っていますが、そのかまどに大きな鉄鍋を掛けて茶葉を乾燥させていたのでしょう。
その住居の少し先に、彼が紅茶の種を蒔き育てた小さな畑が、綺麗に整備されてありました。
キャビンの南側は美しいヘワヘタ渓谷の雄大な景色が広がっていました、そこには二つの平らな石が組み合わされてベンチが作られていましたが、彼はこのベンチに腰掛け何を考えていたのでしょうか・・・・・・ 

1. 美味しい紅茶の条件  2. 成分と薬用効果  3. スリランカの紅茶  4. Ceylon Teaの歴史
5.  等級区分  6. ジェームステーラー  7. ポリフェノール  8. 茶の木
9. 茶の起源  10.紅茶製造   11.カフェイン